HOCCUS POCCUS・TRIO

菅野邦彦(Pi.n) 東京出身


父・兄の影響で、幼少よりクラッシック音楽に親しむ。中学の頃2年半東京女子大の根本ゆり子氏にピアノを師事、中・高・大(学習院)を通して、アイスホッケーに熱中、夢はプロの選手になることであった。練習中のスケート・リンクでジャズを聴き興味を持つ。
大学卒業後は、貴金属会杜に就職。が、天職ではないと一年で退杜。大学時代すでに、吉屋潤とクール・キャッツのグループで演奏活動を経験していた菅野は再ひ音楽の道を選ぶことになる。
橋本修とボヘミアンズ、エディ岩田とポークチャップ、平尾昌章とボーイ・フレンズ等を経て、鈴木勲(B)、ジョージ大塚(Ds)らとトリオを結成。本格的にジャズ活動を始める。

1962年 クラリネットの第一人者トニー・スコット(以下T・スコット)来日。菅野の演奏を聴いてT・スコットは、彼を「天才クニ」と呼び、ひどく可愛がり、かつ厳しく指導した。T・スコットは、また、奨学金付で、バークレー音楽院留学をすすめたが、菅野はジャズは学校で教わるものではないとの考えから、それを拒否した。このことは、以来この世界の語りぐさとしてつとに有名な話である。
かつて菅野には、「俺には俺の音楽を誰にも影響されずに確立したい。最高の音楽は最高のロマンを求める人問の生きざまから自然に発散しちゃうもの・・・。」という発言があった。しかし、研鑽を積む中で・この発言が若気の至りゆえのものであったことを痛感する。今では世界中の音楽全てに、そして、友好を深めた偉大な先人たちに影響を受け、菅野ならではの音楽を確立したい。というのが自身の音楽への追究姿勢に他ならない。

T・スコット帰国1963年〜64年 伝説的存在であった松本英彦カルテットに吸収される。
解散後は、ソロ・ピアニストとして、トリオのリーダーとして活躍。

1960年代後半〜 菅野は数多くのL・Pレコードを発表。その数60枚にものぽる。また、日本で初のライブ・レコードを発表したのは菅野邦彦である。
このライブ・レコードのきっかけを作ったのがジャズ・クラブ「ミスティ」である。ニューヨーク・スタンウェイのフル・コンサートビアノを運び入れ、初代ピアニストをつとめる。同じく、「ロブロイ・クラブ」誕生においても、中心的存在であった。次第に活動の場が広がりをみせる中、常に新しい本物を求めてやまない菅野の性格は、その環境に満足出来ようはずはなかった。
1972年〜 ブラジノレの民族音楽"ボサノバ"を聴いて、同本の"音頭"に近いじやないかと感じ、本物を追求すべくあたりまえのことのように、プラジルヘと旅立つ。それは、まごうことない彼の徹底した本物志向からであった。三年半のブラジル滞在の後はニューヨーク、ヨーロッパなど都合七年半にも及ぶ放浪の生活を送る。
彼ほど世界の一流のミュージシャンと友好を深めた人はいないであろう。

ホーレス・シルハ“一(P)、エロール・ガ一ナー(P)、ビル・エバンス(P)、フィニアス・ニューボ一ン(P)、ハンプトン・ホース(P)、リントン・ガーナー(P)、ハーピー・ハンコック(P)、ウィントン・ケリー(P)
アート・ブレーキー(Ds)、アル・フォスター(Ds)、ソニー・ペィン(Ds)、ジョー・ショーンズJr(Ds)
ポプ・クランショー(B)、フランク・ロッソリーノ(T・B)、トム・ハレル(F・Horn)
ボブ・バーグ(T・S〉、ジョアン・ジルベルト(G・Vo)、ジョアン・ドナート(COMP・P)
アイアート・モレイラ(Ds)、ミルトン・バナナ(Ds)等々
1980年〜 帰国後はジャンルにとらわれることなく、世界の名曲を日本人であるがままに菅野独自のリズム感(音頭のリズムの追求)で、瞬時に料理する。
それが、菅野ミュージックの信条である。そこには江戸っ子風の粋とモダンが混在し、プレゼントリー・ミュージックとも言うべき音楽の確立である。
今、菅野は、自身が考案した黒鍵と白鍵の段差のない平らな鍵盤でより自由な演奏を日指している。

-菅野邦彦ピアノに寄せる想いを語る-

僕は、中.学時代クラッシック・ピアニストになる夢を見ましたが、二年半で挫折しています。そのわけ? それは・・・。

ピアノの音は人一倍好きですが、あのでこぼこな鍵盤を完全にマスターするには、人生が千年あっても無理というものです。この世でピアノを完全にマスターした人などいないのですから、そんなつらい道は僕は選べませんでした。そこでプロのアイスホッケープレイヤーを夢見ましたが日本には現在でもプロ・アイスホッケー・チームはありません。二つの道とも挫折したわけです。仕方なく就職したわけ、これまた第三の挫折です。
そこで、ジャズ・ピアノというか、ちょっとごまかしのききそうなやつでインチキ人生を送るしかないと思って、この道に入った、というより追い込まれたという感じかな?
ところが、優れた即興演奏家になることは音楽家の中でも一番厳しい道であることを自覚させられました。実につらい、つらい道中で何度も止めようと恩って転職を考えたことも度々でした。
世界の長旅を終えてから有り難いことに出てきた発想が、完全にマスター可能な鍵盤に替えてしまうということでした。鍵盤を平らにすることによって、まさにビアノは楽器の王様になりました。これからは大ハッピーな人生です。"今では、ピアノ人生を選んで本当に良かったと思っていますよ'' 菅野邦彦

いかにもというべきその鍵盤でのラィブ・コンサートが、(すでに東京阿佐ヶ谷のクラブ「ラ・ムーラ」で始まっている。)一層日常的に、また、世界に向けて発信される日もそう遠くはないだろう。
コマーシャル化されていない正味の天才ピアニスト菅野邦彦は、日本が世界に問える唯一のジャズビアニストと断言しても過言ではない。
若き日の「天才クニ」は、尚益々健在である。


小泉 清人(Bass/Guitar)

もともとはギターリストだったが、大学時代ベーシストとしてジャズを始める。その後ウェス・モンゴメリーに傾倒しジャズギターを始める。1990年自己のバンドで新宿「J」などの都内ライブスポットで活躍中。50年代、60年代のわかりやすい熱気のあるジャズとボサノバ等の美しいブラジル音楽をこよなく愛す

小川 庸一(Conga)

立教大学卒業後、永年ニューヨークに遊び、ホーレス・シルバー、アル・フォスター、ボブ・バーク、トム・ハレル、ジョー・ジョーンズjr等、多くのトップミュージシャンと知り合い音楽の造形を深め,コンガを手にする。帰国後、菅野邦彦トリオ+1のメンバーとして迎えられる。その後、ブラジルのリオデジャネイロに永住。1996年「ホカス・ポカス」に参加すべく帰国

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